学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

児童生徒のみとり

学校教育業界に馴染みのない方には違和感があるだろうが、とりわけ小学校には、子どもの「みとり」(見とり/見取り)という言葉がある。私など、初めて聞いたときは、別の意味かとびっくりしたほどだ。子どもの様子を見つめる、理解するという意味で遣われるようで、研究授業などでは事前資料に、クラス一人ひとりの子どもの様子が「とても元気で活発、ただし、落ち着きのなさから失敗することもあり」といった感じで、2~3行ずつ書かれていることがある。授業中の様子を記録することを「みとる」という場合もあるようだ。

以前、ある学校を訪問した時のことを思い出した。教育内容について(も)さっぱり分からかった私ゆえか、ひどく退屈してしまい、失礼ながら後半は教室から見える風景に目をやっていたほどである(ごめんなさいね)。この後、授業講評の段で指導主事が次のような言葉を放った。「今の授業で、~とたずね、生徒に、~のようなことを求める内容でしたが、学習指導要領は読まれましたか」「指導要領にそのようなことは書かれていませんね」。

つづめれば、学年にまったくふさわしくない授業の展開だったことを、どう考えるのか、という指摘であった。

学習指導要領に対する評価は一様ではないだろうが、それにしても、若手教員が授業者があったが、「こんな授業をしようかと思うんですが…」と相談をされたベテラン教員はいなかったのだろうか。あるいは、「どんな感じ?」と様子をたずねた同僚はいなかったのだろうか。

若手教員は研究授業を控えた授業指導案を提出すると、古参教員にいじめられるという。「子どもの見とりが甘い」。だからといって「こう見たらいいんだ」と教えられる訳ではない。「自分で考えろ」でお終いだ。

どのように子どもを正確に見とるのか、それはいかに可能なのか。そもそもどれほど可能な話なのか。接する相手によって子どもも変わるだろうに「客観的」に見取ることはどのようにできるのだろうか。ならば、どうして上のようなことが生じてしまうのだろうか。

(力量を積めば)「児童・生徒理解」ができるはず、ということそのものを疑う必要があるのではないだろうか。
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by walk41 | 2013-12-09 14:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)
Commented by ポッピーママ at 2013-12-09 23:51 x
若い先生に対して、高圧的に物を言うのはやめようと自戒しております。が、時折、もどかしくもあり、腹立たしくもあり、言ってしまったり態度に出してしまったりすることがあり、自己嫌悪に陥ります。ただ、自分も学びつつある教師の一人なのだという思いだけは持ち続けたい、切にそう思います。
先日の音楽教育のこと、興味深く読ませていただきました。そのことについては、こちらのブログに書かせていただきました。自分が深く感じていることいないことについて、ついつい他人も同じだと思いがちで、そこに落とし穴があるのだと気づかないで過ぎてしまうことが多いようです。
経験を30年積んでも、勉強しないとだめです。最近、平田オリザさん、北川達夫さんの著書に触れて、日本では『人はそれぞれ多様であって違う存在なのだ』ということが、何につけても前提とされていないし、だから、対話がないのだ、という考えに賛同しています。結局、一つの価値観を押し付け、それがどれだけ定着したかをテストで測る教育をいまだに続けていることの罪を自覚しなければ、何も変わらないという主張は、その通りだと思います。
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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