学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

「学級崩壊」という語り

ふだんは学生や教職員、時には高校生に「教える」という立場にあるが、ところ変わって、「教えられる」立場に身を置くと、学校教育法に言う「学校」とは違う場のあることに、改めて気づける。

まず、人は来たくてそこにいるから、「来させる」必要がない。来る/来ないは「学ぶ」側に委ねられるのであり、脅かしたり、なだめすかしたりする必要がない。成人教育の原則として定式化されているが、主導権は学習側にある。教育側にできることは、その場を提供するまでであり、そこに来るように、ましてや、そこで「望ましい学習者」になるように無理強いすることはできない。

また、集合的関係は必ずしも前提ではなく、個人的な教育-学習関係、あるいは集合的でも学校ほどの規模ではない。学習側に即した教育や、個々にとまではいかなくとも習熟度別に用意された場のあることが前提とされる。だから扱われる内容はより各々に対応しており、学習側にかみあう可能性が高い。

こうした二つの特徴を学校での様子とつきあわせると、違いは一目瞭然だろう。ここでは前者についてのみ述べよう。「学校崩壊」という言葉が、そもそも無理を承知で成り立っていたものが、ようやく崩壊したゆえに生まれたことがわかる。つまり、学級崩壊が問題という発想そのものが、実は倒錯しているのである。成人教育の立場から見れば、崩壊などするはずがない。なぜなら、崩壊が問題となるほどに成立させるために労力を費やす必要がないからだ。

言い換えよう、学びたくて来ている場合には、その場が成立していることが当たり前なので、崩壊するはずがなく、成立しないということ事態が、その場がそもそも存在し得ないことを意味する。ところが学校や学級は、成立することが至上命題なので、そうならないことが崩壊と問題になるのである。

こうして学級崩壊の語りを分解できるならば、学校教育問題や教育問題が怪しげな基盤の上に成り立っていることを確かめることができる。「学校崩壊は大変だ、何とかしなければ」と騒ぎ立てるよりも、「なぜこれが問題になるのだろうか」と冷静に考える方が実は生産的なのである。何とか大学教授や何とか評論家と違って、マスメディアにはウケが悪いけれど。
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by walk41 | 2013-12-13 22:39 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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