今年の初詣の様子を見た、あるブロガーが、晴れ着姿の見当たらなさを指して、冠婚葬祭業がこれからヤバイと書いていたが、「欧州、キリスト教会離れ」(読売新聞、20140105)を読んで、近代社会はいっそう儀式から離れていくのだろうな、と思わされた。
「神は死んだ」(ヘーゲル)の言もこれに重なるだろう、神という名の見えない存在よりも、人間の主体性を優位させるという発想は、「なんとなく」行われてきた儀式やしきたりを後退させる。なぜなら、そこには根拠がなく、あったとしても不確かな理由しか見つけることができず、自分の考えや判断に基づくことが、より「もっともらしい」と思うようになるからだ。
キリスト教徒ではあるけれど、教会には属さないという傾向の強まりは、所得の8〜9%を教会税として源泉徴収されるドイツで、いっそう顕著なようだ。この20年間でおよそ20%もの教会会員数が減っているという。
ひるがえって学校教育。一見、宗教を凌駕した近代社会にフィットした場とも見なせるが、そこには「なんとなく」続けられ、現在から見れば古典的とも見なせる儀式にも溢れている。一斉教授方式、学年や学級という区分、教員資格とその「高度化」志向、学校教育費というドンブリ勘定な財政‥、これらは、先の教会のような體をなしてはいないだろうか。
民主主義社会が、独立した個人の自由意志を最大限に尊重する社会でもあるならば、それは畏敬や迷信を極力排除するところでもある。冠婚葬祭が徐々に廃れるように、事大主義的なあれこれも人気を失っていくとすれば、学校という場は何に存立基盤を求めることになるだろうか。
ひょっとして、そんな問いを持つこともなく、いつまでも教会があると信じる人たちと同じような運命を、学校は辿ることになるのだろうか。