学部生から卒論、大学院生から修論が提出されたのが過日。目下、審査の日々を過ごしている。
各々いろいろな関心、そして課題設定が示されているが、いずれについても評価の際の眼目は、その問題についてこれまでどのような問いが発せられたか、先行研究の検討が十分に為されているかどうかを確かめることだ。
これがどれほどなされているかは、論文を決定的に方向づけるほどに重要である。というのは、その一つに、教育学ほか社会科学の分野では、再解釈の余地がどのように残されているかを確かめることができる、もう一つに、同様の問いをすでに立てた先人から学び、そして対話することにより、自分の問いがより深まるという点においてである。
ところが、この最初の関門を必ずしも通過していないものが珍しくはない。先行研究の渉猟が不十分なもの、集めてはいるものの検討がなされているとは言えないもの、ときに先行研究そのものを念頭に置いたのだろうかと疑問に思われるものもなくはない。いずれも大きな問題である。
先行研究をレビューし、それらを批判するというスタンスをまずは取ることは、自分の問いを広げ、深める上でのよいチャレンジになる。いたずらに首肯したり、無批判のままであることは、自らの問題関心を研ぎ澄ますことなく、いわば「なあなあ」と等閑にしかねない。多少は無理をして、挑むことで、自分の問題の甘さや不十分さに気づき、これを後知恵で構わないから補って、勝負できるところまで持って行くことが肝要だ。
つまるところ、恐れず、媚びず、既に行われた研究を研究すること(これもメタ的研究である)。そして、ドンキホーテよろしく新しいことを打ち出せないか背伸びをしてみること、それが小さいかもしれないが、続くだろう次の人へのバトンになり、歴史的な文脈に自身の作品を埋め込むことができる。
今こうして打つ中で、私の先生の先生が「安心して、背伸びをせよ」と仰ったと聞いたことを思い出した。私の後の人たちにも、縮こまることなく、大いに羽を伸ばしてほしいと望むところだ。