教育委員会制度を抜本的に改め、首長が教育長のワンクッションを置かず、より直接的に影響を及ぼすことができるようにと、地方教育行政法の改正が準備されている。「教育の中立性」確保を脅かすという批判と「選挙で選ばれた首長が権限を行使してこそ民主主義」「迅速に事態に対応できる」という肯定論の構図で、採決上は後者が優位する、という事態である。
年齢とともにすっかり柔和になってしまったためか、こうした構図に大した意味があるとは私には思えない。例えばドイツには教育委員会制度がないが、国家(州)・保護者・教員の権限と責任が、緊張と均衡のうえに法定されており(榊原禎宏・辻野けんま「公教育の質保証における学校の自主性・自律性と『教育上の自由』の定位」京都教育大学紀要、119号、2011)、「中立性」があり得るはずだという、ある意味で幼い議論の水準を突破しているように思われるからだ。
今の日本のお喋りの幼さは、マクロレベルで権力を行使すれば、例えば学校教育の現実を左右できると思い込んでいる点と、未来のことは読み切れないのだから「まあこんな辺りで」と達観/諦念するゆとりのなさにも現れている。公教育を政治上のアリーナに仕立てるのだ。
しかしながら、過日の拙ブログで報告したように、7年前の教育基本法全面改正が何をもたらしたか、最前線の学校で必ずしも明らかではないし、15だったか多くの教育関係学会が協同して反対したことをどう総括、評価するのかという話もとんと聞かない。「もう済んだことだから」なのだろう。
むしろ問題は、社会が変わることは確実なのに、先に生まれた世代の発想で未来に影響を及ぼそうという「これきゃ、ない」という発想の貧しさ、懐の浅さが露呈されていることである。
いくら若いと胸を張っても、時代ごとの感覚には及ばない。未来のことは未来の人で考えて、という大人っぽさが伺われず声高に旗を振るというのは、老いを目前にして焦る、自身の心境の投影なのだろうか。