指導主事さんと話す。「達成と満足の話をなさっていましたが、どういうことでしょうか」。
例を引きながら話すなかで、これは客観的評価と主観的評価、さらに「見える」と「見えない」に連なることに気づかされた。
学校教育で考えると、生徒の学力が上がったかどうかはテストなどで客観的に測れる、見えるが、それによって生徒の興味や関心が高まったかは当人の主観に委ねられ、見えるものではない。少なくない教員が給与の多寡よりも仕事にやりがいを求めるのであれば、見えるものよりも見えないものに重きをおいていることになる。保護者の学校評価は多分に後者、主観的であり、だからこそ数値で表記することが嫌がられる。
にもかかわらず、達成、客観性、見える化がもっぱら唱道されるというのは、その主が一面的な見方に留まっていることに気づけていないことを意味する。「こうすべきだ」と主張する際に、自分を疑ってみること、ワンクッションを置く能力が求められるだろう。
自身がどのような観点から事実を見ているのか、どんなフレームにもとづくとそのような結論がでてくるのか、という認識枠組みを可視化することは難しいのに、それを放ったままに「見える化」を唱えるというのは何と皮肉なことだろうか。