高校にて、今年度末にまとめる学校評価の結果を聴く機会を得た。
授業や生徒指導といった領域ごとに、数値を含む結果が報告される。そして、次年度への課題として、「魅力的な授業に向けて」「指導のいっそうの徹底を」といった文言が並ぶ。
そこで次のような質問をさせてもらった。「この評価の結果は次に向けて、先生方のどのような変化を求めるものでしょうか。言い換えれば、これまでと比べてどんな違いが皆さん方の取り組みには見られる、と評価なさっていますか? そしてその試みはいかがでしたか?」と。向かい側に座る学校職員は「う~ん」というリアクションだ。
大学でもそうかもしれないが、学校では現状を変えるために「~させる」という論法がよく用いられる。小学校で例えれば、「きれいにノートを取らせる」「宿題わすれのないように、保護者にチェックしてもらう」といったアイディアだ。これでは、教育に携わる自分たちが変わるチャンスを逸したままである。
そうではなく、次のように考えるべきではないだろうか。「~ように指導したから、~のように生徒が変わった」ということは、ほとんどできない。両者の関係を純粋に取り出すことは、不可能に近いからだ。だから、どのように変わるかまでは説明できないけれど、その方向により向くようにと、教員あるいは教職員が従来からいかに変わったかについては説明できる。この変化が生徒を変えるかもしれないと思いつつ、自身を更新していくことで学校を変えようとするのが、明快でかつ手っ取り早い。
ところがおそらく多くは、自分たちが変わらずに「~させる」と発想しがちだろう。他者頼みだからこそ、「指導を繰り返す」「指導の至らなさ」という文言が並ぶのである。これでは現状を変えることはおぼつかない。同じやり方を繰り返すのではなく、違うことを試みてみること、そのアイディアがより生まれるような働き方をすること、その一助として学校評価も活用すること、こうした論理が求められているのではないだろうか。