学校に身を置いて気づくことがある。それは、学校とはまったくシステム的ではない、ということだ。
けっこうひっきりなしに電話がかかる。ちょっとした雑談からシリアスな話に繋がる。生徒に声をかけたことから思いも掛けず話が広がる、といったことの連続に思われるからだ。
PDCA論では、現状を分析して立てた計画に即して実践を進め、臨機応変ながらも目的の実現を志向し、そして最後には評価を次のステップに活かす、と説教をされるけれど、これが学校教育の最前線を説明しないことは明らかである。だって、予定に即して事態が流れないもの。子どもの都合、保護者の都合、そして教職員の都合、と自分ですらどうしようもないことに溢れているのが学校だから。
学校教育に関する法律、これに対応する行財政、あるいは儀式等については、システム的であるし、その効用が期待されているけれど、多くの部分はそれは違う論理にしたがい動いていると見る方が実際的である。このように言えるのならば、それに即して理屈を考え直した方が生産的である。
じゃあ、学校教育をどう評価すればいいの、と難問が出てくるけれど、敢えて言いたい。これは当事者の主観に委ねよう。楽しかった、満足した、やりがいがある、…と。それでは説得的でないと反論する向きもあるだろうけれど、仕方がない。教育を受けるということ、学習をするということは、それぞれの自己体験に他ならないのだから。これをエビデンス(証拠)として取り扱うことができないのは、言うに及ばずということなのだ。