ある対象を観察しようとすると、その存在に対象が影響を受けて、それまでとは姿を変えてしまうこと、この結果、本来見ようとしたものが見られない様を、自己言及(self reference)という。
Web上の読売新聞に、「授業参観で娘が泣きました」(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/0425/655124.htm?g=05) という投書があった。小学校1年生の子どもの授業参観に出かけたら、母親を見つけた娘が授業中に泣き出したというのだ。
泣くほどの影響を受けるかはともかくも、普段はいない存在がその場に影響を及ぼすことは十分に踏まえてよいだろう。ましてや、評価される場面ではなお一層で、医者の前で血圧が上がる(白衣効果)、面接の際に「上がる」(緊張して赤面、声が上ずるなど)、といったことは日常的である。
だから、授業を「正しく」観ようとすれば、観察者である自分の存在が知られないようにしなければならないが、多くの小中学校で行われている研究授業や公開授業は、それとは反対の趣きを持っている。すなわち「観に来てるよ」メッセージをさかんに発しており、端から「本来の」授業の様子を観るつもりのないことがわかる。
なのに、事後研究会と称するところでは「あの発問は」とか「あの生徒の様子からすれば」とか、まるで星の観測をするかのような、観察者の存在が対象に影響を与えないかような前提を置くから、な-んも意味の無い、時間つぶしのお喋りに終始するのだ。だから、私は何十回でも言う、「こんなこと、さっさと止めよ」って。
「だいたいこんな感じ」というきわめてユルユルの精度しか追求できない対象、しかも刻々と姿を変化させる対象、こうした授業や学校教育という対象の特性にふさわしい「観る/観られる」を踏まえること、はたして、教育技術や教育方法というものが存立しうるのかを含めて、考え、整理すること-こうした作業なしに「より良い」教育実践など、あるはずもない。だから私は「机上の有論」が大切と主張するのだ。