学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

評論家は要らない

道徳の教科化に関する「15歳のニュース」(毎日新聞、20140503)を読んだ。

押谷由夫「心のすき間を埋め、子どもたちの中に人間らしい豊かな精神を育てていくには、まさに"心の教育”すなわち道徳教育の充実が不可欠」とある。もう慣れっこだが、こういう文章に接すると、つくづつ嫌になる。

なぜって? ①まず限定的に科学を捉えよう。すると、この氏の言うようなことが本当に起こるのかどうか、を確かめなければならない。「道徳教育をたくさん受けた子どもは、『心のすき間を埋め』られるのか否か」である。これを実証するには、二つのことが示されなければならない。「たくさん受ける」⇒「埋められる」ことと、「少ししか受けない」⇒「埋められない」である。片方だけではダメだよ。「少ししか受けなくても、埋められる」場合があるから。

いやいや、そんな実証は無理でしょう、と返されるならば、②せめて、解釈として妥当性をもっているかどうかを吟味しよう。「心のすき間」と「豊かな精神」と「道徳教育の充実」の論理的関係はいかに説明できるか、である。たとえば、「心」と「精神」は同じであるという根拠(「心」と「態度」や、「心」と「思考」との関係との違いといった)が示されねばならず、さらにこれらと「道徳教育」とが順接することが述べられなければならない(教育されると精神が育たないのではといった反論を踏まえつつ)。自分が遣うキーになる言葉を定義して、それらに矛盾がないことを述べるのだ。

このいずれにも成功しなさそうならば、語ることを止めなければならない。だって無責任極まりないもの。実証はおろか、解釈すらできないという語りは、放談、思いつき、である。そんなものを読まされるなんて、迷惑に他ならない。

だから、データのないもの、論理的に説明すらできないものを述べる輩、評論家は教育の世界にも不要である。データを取りにくく、情緒的で曖昧な言葉を好む世界であることを背景に、その輩は雨後のタケノコ状態だが、お引き取りを願わねばならない。好きなことを言うだけ言って、潮時と見れば別のことをすぐに言い出すのだから。でも、こんな語りを消費させたがるメディアには重宝がられるもんね。こうして、いつまでも阿呆なお喋りが続くのである。
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by walk41 | 2014-05-06 14:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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