「アメリカどこへ、地力支える教育」(日経、20140515)を読む。
人種間の経済的格差が学校教育での達成の格差へと繋がっていることは、つとに指摘されるところだが、くわえて、「米国の公立校は幼稚園から高校まで学区制が原則」の一文に触れ、学区制の議論も他と同じく、光と影の両面があるなあと、改めて思わされた。
学区制で生徒とその保護者にいわば縛りをかけることは、学区の凝縮力を高め、「地域の学校」として存立させることに寄与する。しかしこの反面、学区地域からの「脱出」を認めず、その地域の経済的、文化的、あるいは産業的な条件を再生産するように方向づけられることにもなる。
それぞれが、人間の集合的ー個人的側面を投影しており、前者を重んじれば個人は不自由に、後者に傾斜すれば社会的紐帯が危ぶまれる。両者を何とかうまく成り立たせられないかと、学区制のもとでの一部地域外通学を認める、私立・国立大学法人学校と公立学校との並存を認める、中規模の学区へと広げる、といった方略が取られてきたが、円満解決に至っているわけではない。高校に即して見れば、学区制撤廃と学校統廃合、公立ー私立の人数配分、生徒を受け入れる幅の大小と学科再編といった課題に常に迫られているのが、実際だろう。
だからここでも思う。「どうしたらいいのか」を求めつつも、妙案が出ないときは、「どの点で葛藤しているのか、行き詰まっているのか」を見極めようとすること、もって「どうすればいいのか」ではなく「何を考えればいいのか」について発想を拡げ深めることが大切だろうと。
無責任な「こうすべきだ」「こうなければならない」という説教ではなく、かといって現状肯定の「こう決まっている」「このように運営されている」という解説に留まるのでもない。「今を変えることと変えないことのメリット、ディメリットは何か」「今をいかに変えうるのか、その際の困難は何か」と診断という説明のできること、このための事実認識、問題整理に関わる能力が求められると。