学生に対して、現職の中学校の先生に話をしてもらう。
いわゆるやんちゃな生徒、いろいろな困難を抱えた生徒のエピソードは、枚挙に暇がない。私も学べることがたくさんあった。
と同時に、こうも思う。中学校教員の仕事って、かくも「賭ける」ものなのだなあ、と。
生徒やその保護者との様々な関わり、涙あり笑いありのあれこれ。これらは、教育側が計画して、それに即して行動して、修正を加えつつとはいえ、初志貫徹を目指して、その結果を評価して、そして次の機会に臨む、というPDCAサイクルとまったく異なるものである。教員のやるべき事柄は、自分が計画するものではなく、他からやってくることにいかに対応するのか、なのだから。
この点で今回うかがった「実践」とは、自分が主体というよりも、むしろ客体として位置づけられると言う方が説得的である。いわゆる教育実践、とくに学級経営は、目的地を目指す航海にも喩えられるだろうが、それは、ときに荒れ狂う海に常に備え、かといって十全に対応できる訳でもないという、出たとこ勝負のあやふやで、さらには目的地そのものもあっけなく変更を余儀なくされる、一連の出来事なのだろう。
生徒が卒業して数年後に、当時のことを記した手紙が届いたというエピソードは、教育効果を事前に見通すべき(すなわち、「仮説-検証」に則って、実践に臨むべき)、といった語りがいかに現実味を欠いているか、また、教育活動に目標管理(management by objectives and self-control)という発想そのものが、どれほど傲慢な自己効力感に溢れているか、を教えてくれる。
教育実践とは、賭けるものであり、挑戦でもある。そこでは「間違いの無い」「失敗しない」ことなど、あるはずもない。常に「どうなるかわからない」のだ。こうした事柄に溢れる学校教育が、同時に莫大な資源を要する公共事業としても行われているというジレンマ、葛藤を見るに、社会的な寛容や受容が伴ってこそ、学校は存立できるのだと思わされる。