やっぱり学校評価は難しい
学部生への授業、学校とはどのような組織かを扱う。学生たちに次のように問いかけた。
中学校や高校では定期試験ってあるよね。あれって、試験日に向けて生徒のお尻をたたいて、普段の学力以上のものを示すべく、行われていると思わない? つまり、教員の授業力や指導力を投影した結果として、生徒の学力が測定できるという論理ではないわけ。 いじわるな言い方をすれば、仮に教員の授業が下手で、生徒がよくわからなかったとしても、定期試験に向けて頑張らせることで、その不十分さが塗り固められる可能性がある点では、より正しく学校の状況を把握しようというつもりがさらさらないことを示している、ということになる。 かくも、学校で行われている教育-学習という活動は、その結果がどうであり、改善するには何をどう変えていけばよいかを明らかにする、という論理とは異なるものだということがわかるんじゃない? いかがだろうか。活動の結果を直截に受けたものとして、児童生徒の変容が想定されているわけではないために、PDCAサイクル論を含め、学校評価、教員評価、さらには教育評価のいずれについても、形骸化せざるを得ないことが明らかだろう。求む、反論。
by walk41
| 2014-06-05 20:59
| 学校教育のあれこれ
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Comments(4)
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むらい
at 2014-06-23 02:10
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前半は定期試験の枠組みが「教員の授業力や指導力を投影した結果として、生徒の学力が測定できるという論理」を持っていない。なぜなら、「仮に教員の授業が下手で、生徒がよくわからなかったとしても、定期試験に向けて頑張らせることで、その不十分さが塗り固められる可能性がある」からだ、と捉えました。この考え方は私が持っている問題意識のもう一歩先にあるものだと感じました。国語科においては、そもそも、定期試験で測ろうとしている力と、授業で身に付けさせたいと思っている力が大きく乖離しているのではないかという問題意識を持っています。例えば、一つの文章の学習が抽象的な語の意味を考えることや、一文や一段落、あるいは文章全体の解釈すること、筆者の表現の工夫を知ること、といった目標で短くても4時間ほどかけて行われるのに対して、定期試験では2つ以上の文章を、50分で、授業とはかなり違う状況(一人で、口頭ではなく記述で、辞書やワークシートといった他の道具を使えない、など)で解いていく必要があります。この間に、生徒に試験を解かせるためのステップを投入しない限り、そもそも「教員の授業力や指導力」とは関係のない力を測定していることになります。
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むらい
at 2014-06-23 02:13
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そのため、まずは、授業で身に付けた力はどのように評価することが可能なのか、という議論をある程度クリアしたうえで、初めて、そこで評価された力が、教師の好ましくない介入によって「不十分さが塗り固められる可能性」についても考えていかなければならないように思います(もちろん、同時並行することも考えられますが)。
後半の「かくも、学校で行われている教育-学習という活動は、その結果がどうであり、改善するには何をどう変えていけばよいかを明らかにする、という論理とは異なるものだ」については先生がいつも主張されておられることで納得ができます。そのうえで、教育評価の改善について考えてみます。 先ほどの二つの力の乖離について、議論をしないままで定期考査を行うことは教育評価の方法を形骸化・固定化させる原因の一つだと考えます。
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むらい
at 2014-06-23 02:14
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定期考査の本格的な作り方について大学の授業で扱うことはあまりないですし、国語科においては書籍も十分にあるとは言えません。そのうえ、中学校や高校では定期考査を実施することが前提なので、先輩である教員から新任の教員へ方法や内容が受け継がれていると仮定できます。そのとき、その内容や方法、定期考査への枠組みについて積極的に問われることがないまま、受け継がれていく。このようなサイクルが教育評価の形骸化・固定化を生む一つの理由ではないでしょうか。
先輩から後輩へと評価の形骸化・固定化を招くサイクルがある場合、「長く教職に就く人が多いという特徴は、その労働環境の変化の著しさと好対照になって」おり、「教師のやりがいを長期的に持続させるためには、教師自身がうまく変態(メタモルフォーゼ)することが不可避になっているのである」(榊原、2012「感情としての教育労働と教師のやりがい、健康」、小島弘道監修『「考える教師」―省察、創造、実践する教師―』、学文社、p.37)という先生の言葉は形骸化・固定化を乗り越えるためのきっかけになるのではないでしょうか(「やりがい」と「定期考査」では文脈がずれすぎているかもしれませんが)。
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むらい
at 2014-06-23 02:15
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どのように改善するべきか、という具体的な方法は明らかにできなくても、教師がその問いを持ちながら、自身を「変態」させていくことが形骸化・固定化を乗り越える可能性につながるのではないか、ということです。
定期考査をせざる得えない原因の一つに入試制度などの影響があること、あるいは上の仮定は正しく、評価のパラダイムの変化と教員の評価の方法との間には変化がないのか、という点については教員へのインタビューを夏休みにすることを予定しています。 長々と失礼いたしました。
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