学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

研究発表会ではなく、学習発表会なのだ。

気づくというのは、こういうことかもしれない。気づいてしまえば、「なんや、そう考えたらええのんや」である。

研究発表会に向けての打ち合わせ会を覗く。ごめんなさいね、こんな言い方をして。しかしながら、まったく消耗する。だって、結局のところ、児童生徒に何かに取り組ませること、その大方が、手はず、準備と分担、スケジュールの話だったように思えたから。大学の専用用語だと主張するつもはないけれど、違和感を否めないのだ。「これって、どこが研究なん?」って。

大上段に構える気はないのだけれど、研究とは何か新しいことを見つけることである。その結果として、新たな見方や作品が生まれる。ところが、教育あるいは学校教育の世界は、どうもこれに馴染まない。なぜなら、環境をなかなか制御できず(正しさを担保するために繰り返してみることが叶わない)、また当事者が自己言及的であり(教員がそう言ったからこうなったのか、そう教員に言わしめる様子を先に生徒が示したからなのか、を区別できない)、さらに観測や測定にも馴染まない(授業や生徒指導の測定機の話は微塵も出ない)から、新しいことを少なくとも実践と言われる領域で見つけるのは、困難を極めるのである。再現性を求める研究ならば、なお一層、ほとんど無理な話と言ってよい。

なのに、研究主題、研究仮説、研究授業、研究報告書と、誰が言い出したのか知らないけれど、研究という言葉のオンパレードだから、とっても不細工なことになる。

これまでどれだけのことが分かっているのかと、先行研究の渉猟をすることもなく、独立性の高い変数間の関係を追求するわけでもなく、「あんたら、こんな調子やったら研究発表会に間に合わへんで」と子どもがやらされている授業を見せて、仮説の検証などと銘打っているのに、さっぱりそんな話にならず、まあほとんどの人が読まない報告書作りが続く、といった具合なのだから。

「ウチではこんなことに取り組んできました。この背景や経緯は別記のとおり」と述べたら、あとは教員と児童生徒の様子を見てちょうだい、それをどう受け止めるかは見た人それぞれに任せます。このように場を設定するのがもっとも相応しいと思う、つまり、(教育)学習発表会なのだ。

そこには、仮説も、検証も、一般化も要らない。自分たちはこう考えて、生徒たちとこんな風に取り組んだというケースの話である。その意味や意義は学習発表会を見た人に委ねられる。この方向に大きく舵を切るという提案、学校関係の皆さんはどのように聞いてくださるだろうか。
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by walk41 | 2014-06-21 00:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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