学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

教員の養成

他大学に務められている、かなり年長の教授と話す機会を得た。

関西でも雨後の竹の子のように(失礼!)新興の教員養成関係学部が誕生し、「えっ、あの人があそこに」というような採用人事が行われてもいる。そうした大学関係の方から、「一回生から教員採用試験の勉強をさせていますよ」と聞いたので、「はなはだ失礼ですが、そうして『いい教員』が育てられるでしょうか」とたずねると、「駄目でしょうね」とあっさりと返ってきたので、拍子抜けするほどに驚いたことだった。

為政者や行政官は、自身の「存命」期間の長さを知ってか知らずか、最短コースを志向する。つまり、「ムリ、ムラ、ムダ」を避けて、直線的に行為と結果が結びつくように論理をつくる。「~すれば、~になる」といったようにである。

しかし、子どもの成長・発達はそうした当事者の思惑や駆け引きとかなり独立しているので、実のところ、紆余曲折する。ある「成功話」を聞いたからといってそれに肯定的になる訳ではなく、逆もまた然りだからだ。

巨大な公共事業でもある学校教育が、官僚制のもと、説明責任や情報公開、評価といったキーワードに囲まれていては、非直線的な発想の入る余地は少ない。「そんな悠長なことを」との誹りを免れないからだ。そのため、投入した資源に対する効果(費用対効果)、目標管理といった言葉が支配的になりがちである。

しかしながら、その一方、学校教育が、教職員よりも先まで生きる児童・生徒の「幸せ」を問題にするという基本的性格を外せない点で、残念ながら、直線的な発想に基づく論理は現実に対する高い説明力を持ち得ない。

教員を育てるということも、以上のことにまったく重なる。「よりよい」教員を措定することが難しく、また自身が変態する可能性をも考えると、少なくとも養成(教職に就く前の段階である)のあり方を狭めて考えるのは、得策ではないと。

いずれの議論であれ、「どうなるかわからない」と「分からなさ」を強調するだけではいけないけれど、かといって「わかったようなことを言う」訳にもいかない。だから私は言うのだ。「~すべきだ」という語りがいかに無責任かを知って、できるだけ禁句にすること、その替わりに、どこまでの事実を「~である」と説明できるかに心を砕くこと、もって、残される余地こそが教育実践の領域だろうと。
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by walk41 | 2014-06-25 01:05 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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