夏休みが始まったということは、各地の教育センターの研修がいよいよ書き入れ時に入ったことでもある。忙しいながらも子どもたちは夏休みだが、多くの教員にとっては研修のスタートの感なきにしもあらずだろう。
そんなことで出かけた研修先で、「かくも、教員それぞれのやり方があるのだなあ」と思わされたエピソードに接した。話の発端は、「見えにくい」学校教育ではそれぞれの辞書が作られやすく、誤解や勘違いも生まれやすい。これまでに経験した、学校での勘違いにはどのようなものがありますか、という問いだった。
ある男性教員が話してくれた。その学校では毎年、学級担任が替わるそうだが、新しい年度に入って体育の時間、運動場で児童を待つも来ない。どうしたのかと教室をのぞきに行くと、子どもたちが待っていたという。聞くと、前の担任は、体育の時間、教室で待たせて、そこから整列して運動場まで行くというやり方だったからだそうだ。
ほらね、こんなにも自分のやり方、流儀が台頭しやすい職場で、「学校教育目標実現のために、職員が一丸となって取り組むように、リーダーシップが発揮されるべき」なんて能書きを垂れても、何の意味も無いってことがわかるでしょう。学校はそんな風に動かないし、それは教員の意識改革でどうこうなるものでもないもの。
勘違い、見て見ぬ振り、前例踏襲、いずれも批判されるべきことだろうが、にもかかわらず、そのようになりがちなのが学校だという事実(それはある意味で合理的な結果でもある)から議論を始めるべきだろう。「私がそうすべきと言っているのに、そうならないのは職員の力量不足のためだ」なんてピンと外れのことをいう輩をさっさと外して。