校内研究の在り方に関する研究会に出る。学校種の違い、これまでの学校ごとの経緯など、それぞれに校内研究が行われていることがわかり、とても勉強になる。この点は確かだ。
それと同時にこうも思う。教員みなさんの実感として、あくまでもケーススタディ、この子どもだから、このクラスだから、あるいは、自分との関わりだから、こんなふうになったのではないかとわかっている。また、授業で起こっていることは多分に自分の解釈に留まる、と承知してなお、授業研究をするエネルギーの源は何なのだろうか、と。さらには、原理的には自己言及して、行為ー結果の関係を説明できない、自身の発言、そして児童の声や様子を、ICレコーダやビデオレコーダを駆使までして記録を取り、また文字起こしまでする動機は何なのだろうか、と。
授業は一回きりの出来事であり、日々変わっていく子ども、そして教員自身の関わりとして、偶然のものである。もちろん、机や椅子のあるなし、生徒一人ずつの教科書の有無、あるいは教員の学校歴の長さが、授業の成否に影響することは考えられるから、どんな教室や教員でもいいとは言えないけれど、授業研究として操作できる範疇に、学校改変のようなことは含まれないから、そもそも議論の対象にならないのだ。
授業時間を短く、あるいは長くしてみる、男女別に授業をする、板書やプリントなしで授業をする、といった冒険ができないのなら、試みられることはしれている。ちょっとしたこと、発問の工夫、資料の提示の仕方のアクセントの付け方、「一人学び」の時間の確保、グループワークの導入、生徒の活動を促す、といった類だろう。
大胆な授業改変が、学校教育政策や行政の判断を待たざるを得ないのであれば、残される授業研究とは、創意工夫の域を出るものではないだろう。これはどんな点で研究なのだろうか。そして、それにおしなべて懸命な教員のエトスとは?