教員研修にて演習の様子を見学する。
自分の意見を伝えることが苦手、という児童の状況に対して、あるグループが示した分析は、「安心して発表できる仲間づくりが十分ではない」というものだった。そのあと、少し話をする時間をもらったけれど、こうした教員の論理的な間口の狭さが、新しい実践を生み出す上での障壁になっていると強く感じる。
実践は論理によって支えられている。〜だから、〜でしょう、という理屈が、それぞれの行為を導くのである。だから、新しい実践をするには新しい論理が必要になる。それなくしては、借り物のhow-toに過ぎず、自身の実践を変えることに繋がらない。付け焼き刃の状態である。
たとえば反対の発想、仲間の前だからこそ、知り合っているがゆえに改めて発表しようという意欲が生まれないのでは? 同調圧力が発言を抑制しているのでは? と論理を立てることで、これまでの仲間づくり一辺倒から、異学年交流や異文化交流が重要なのでは、とアイディアが生まれる。これが新しい実践のヒントになるはずだ。
だから、教員間の議論で「そうだよね」「わかるわかる」となるのは、危険でもある。これまでの論理だけが幅を利かせて、他の論理的余地を与えない可能性があるからだ。「わかりやすい」授業が必ずしも良くないのと同様、「わかりやすい」話し合いは新しい論理を抑制する。これまでと同じ論理だから「わかりやすい」のだから。
つまるところ、教員の実践力なるものは、その論理力であることがわかる。「机上の有論」を大いに広げて、実践的にも「引き出し」のいっそう多い教員になってほしいな。