学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

教育ー学習の特性にかなった学校の発表会を

ある形式が定められていることは安心でもあるが、「例年どおりで」と怠惰の隠れ蓑にもなりうる。多くの小中学校で行われる校内研究の発表会は、その好例だろう。

なぜ授業の場面を見せようとするのか、普段の授業とは明らかに違うにもかかわらず、あたかもそのようかのように演出する。教員の発問を通じて生徒の態度や行動が変わるというモデルを説明しようとするために、そのように見せる工夫がなされる。これらは「やらせ」、あるいは見世物である。この気色悪さは、相当に演出されているのに、そうではないかのように見せられる点にある。中途半端と言ってもよい。

その気色悪さから抜け出すために、発表会は見世物だと割り切ってみよう。普段はいない人々に見られる条件を外せないのならば、正面切って、演出された発表にするのだ。今年度の取り組みの結果、どのような生徒が見られるようになったのか、体育や技術・家庭・美術や音楽などではイメージしやすいだろう。生徒の動作、活動、作品などを見せればよい。

また、国語や算数・数学、理科や社会といった座学が多い科目についても、学習発表会という形式は適っている。美しい書写をその場で見せてくれても、既に書かれたものを展示しておいても構わない。詩の朗読を聞かせてくれてもおもしろい。幾何の証明を生徒が聴衆の前で行うという感じでもよい。あるいは、生徒たちによる調査の結果を展示するとともに、そのブースに来た人とやりとりする、ポスターセッションを開くこともできるだろう。もちろん、教員の取り組みの記録をポスターや映像で見せる、テーマを定めて参加者と議論する、あくまでもやり方に拘るというのであれば、参加者を生徒に見たてて、模擬授業をやってもよい。

なぜ、授業という形にこだわらなければならないのか。授業の自己言及的性格、そこでの観測や測定の困難などを考え合わせると、授業でなくても、というよりも、授業という形で発表会をすることの問題がむしろ多い。学校での発表会に授業という形式は邪魔ですらある。

もっと、教育や学習の性質にふさわしい発表の仕方を考えよう。一回授業を見たからと言って何が変わるわけでもまた分かるわけでもないのだから。たとえば一年近くかけて取り組んだことが研究の軌跡であり、それを分析、解釈したものが発表なのだから、研究と発表を分けて捉えよう。「研究発表」と繋がっている言葉を切り離してみよう。そうすれば、自分たちがやりたくなる研究と発表になるはずだ。やりたくない、研究主任になりたくない、と思う自分の感性を信頼して、新しい校内研究とその発表をイメージしてみよう。それこそが、昨今かまびすしい「思考力、判断力、表現力」を教員について問うものでもあるだろう。

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by walk41 | 2014-11-16 06:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(1)
Commented by ポッピーママ at 2014-11-24 01:25 x
お久しぶりです。
教頭に、言いたいことをぶちまけたら、すっきりしました。で、やはり、『授業を公開して、研究する』ということが、とにかく大事だということが、すべての教師の頭に刷り込まれていて、びっくりします。授業が、一度きりのもので、やり直しもきかない、実験的な取り組みもできない、計画した通りに行くとは限らない、様々な要素が複雑に絡み合ったもので、そこから因果関係を取り出すなどおよそ不可能なことなのに。そこに多大なエネルギーを注いで、これこそが教師の研修だ、と信じて疑わない。
海外では、教師個人や教師集団は、何をどう研修しているのでしょうか。日本の『授業研究』の伝統は、世界からどう評価されているのでしょうか。
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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