学校教育の世界は、活動という言葉が好きだ。
話し合い活動、操作活動、言語活動、読書活動と活動のつく言葉を挙げれば、きっと枚挙にいとまがない。いっぱい遣われるほどに中身がないとも言える。
話し合いと話し合い活動の違いが何かと尋ねると、教員は何と答えるだろう。操作と操作活動も同様だ。
活動と言えば、何かまとまったことをしている、意図的で計画的なものである、という観念が滑り込む。こうした言葉が遣われるほどに、学校で起きている事実がそうではない、ということである。
事実が伴わないのに、大仰な物言いが跋扈しがちなのが、学校教育のお喋りである。子どもが何気に口を開けば、自分の言葉で表現する、という表現に化ける。自習と言えば済むのに、一人学び、といった言葉になる。ちなみに、手指を動かしているさまを、手遊びという習慣も学校にはある。
ともすれば二文字漢字を遣いがちな学校、何となくのイメージで語ることに対して、いかに抑制的でありうるか。児童生徒に対してコミュニケーション力の育成をというのであれば、教員が自身の言葉をいかに吟味できるか、がいっそう問われると思う。