学校のスリム化という話に絡んで、「教員の仕事は勉強を教えることに限るべきで、教育全般を学校に押し付けるべきではない」という主張がある。が、この立論はおそらく現実味を持ち得ないだろう。
なぜなら、(少なくとも日本では)学校生活というように、児童生徒の勉強、友人関係、部活動その他あれこれが、学校の中で混在しており、学校の内と外という区別で役割を分担することが整合的とは思われないからだ。確かに、「学級経営は授業の基礎だ」と授業そのものの魅力を高める努力を必ずしもしていない教員のサボり癖も困ったものだが、だからといって、学校で起こる子ども間のトラブルに対して、ノータッチといかないこともまた事実だから。
子どもの身体は一つであり、彼らの認知的、情緒的、感性的なセンサーが学校であまねく働き、理解や習熟、喜怒哀楽や審美眼などが培われる。このために、空間的な区切りはある面では有効だろうが、教科、道徳、総合的な学習、部活動、生徒会活動、ボランティア活動などを包摂する日本の学校、とくに中学校においては、あまり意味をなさない。どうしてって、生徒の生活リズムが学校ベースになっていることを認めざるをえないから。
そこで、学校の外に教育的機能を持ち出せないのであれば、学校の中の機能をむしろより充実させて、つまり、教員だけでなく、スクールソーシャルワーカー、養護教諭、スクールカウンセラー、図書館スタッフ、スポーツ指導員、音楽指導者、文化・芸術関係の専門家、さらには退職教員など、多くの人々、しかも「社会総がかり」などと牧歌的な表現ではなく、ある専門性を持った人たちによる分業体制として、学校での業務を想定してするのが、合理的と思われる。こうしてこそ、リーダーシップやコミュニケーションというテーマもより豊かに広げられるだろう。
外部資源の活用を進め、それらを学校内部の資源ともしつつ、狭義の教育に留まらない活動の場を学校として提供するということ、こうした方向に近未来の学校像を求めるべきと、私は考えている。読者のみなさんのご批判を頂戴したい。