使っていたコーヒーメーカーが壊れたので、違うタイプのものを買い直した。
前のものは湯がすべて落ちると自動的にスイッチが切れていたが、今回のは自分でボタンを押さなければならない。思わずつぶやいた。「学びなおさなければね」。
伺おう。学びバンザイと言いだしかねないような「学び論」では、学び直しについてどのように考えているのだろうか、と。何かを学ぶとは、これまで学んだことを修正や否定することでもある、という観点はいかに含まれているのだろうか。
学ぶとは、これまでの自分をわずかではあっても否定し、大げさには新たに生まれ変わることでもある。だから、たとえば年齢を重ねてガンコになるとは、新しく変わることを恐れている様をも指している。
学ぶとは、教室や学校での出来事に留まらない。自分の食べているもの、着ているもの、付き合う人たちについても、少しづつ刷新あるいは幅を広げていくこと。これらを実践しないで、他者を指して学んでいる云々など、もしするようなことがあれば、なんと傲慢なまた幼い話だろうか。
たとえば、大学教授だからとか、何とか研究者だからという、肩書きからも自由であることなしに、学ぶのは覚束ない。拘らないこと、固執しないことで、より自由に大らかにそして心穏やかに生きることができるように感じる。