一つ前の拙ブログ記事で、論文ができた旨、お伝えしたが、さっそく読んで下さった方がおられ、興味深く感想を伺った。
学校管理職の方なのだが、「あそこに書かれている通り、合意形成は一応そういうことにしているだけで、実際にはハリボテのようなもの。そんな指摘をするのは先生(榊原)らしいですね」と。
またこうも言われた。「現職の教員が書いていますが、あのような指摘をして大丈夫なんですか」とも。
大学の運営においても、似たようなことはあるけれど、学校という組織の特性を踏まえて、ありうる合意形成や共通理解の議論をすべきなのに、それらができるはず、できないのは職員の意識や力量が低いため、という論理が跋扈していることを、重ねて憂う。
大事なのは、教員それぞれが一家言あるのに、それを出し合うことは少なく、また出したとしても、いわば言いたい放題になるのが、見えにくい学校教育、主観的に捉えられやすい学校教育の宿命であると、(残念ながら)認めること。これを避けてはいつまでも、いたずらな鼓舞や説教に留まるのではないだろうか。
昨今の大学運営を見ていても思う。ある「正論」が幅を利かせると、それに従うことが当然という雰囲気が生まれる。この状況に対して取りうる選択肢は、①考えずに懸命にそれに臨むか、②できるだけ知らんふりをしてサボりを決め込むか、③分析的に捉えて、相手にされなくても異議を唱えるか、だ。
与党的な立場になれば、①を取らざるを得ない、野党的でいいやと割り切れば、②か③になる。知らないモンと言いたくなく、かつ小さな権限への憧れも持てないならば、③を選ぶことになる。そんなん、なんの役にも立たないやん、と非難されることを仕方なしとして、かつ黙ってた訳ではないで、とは言いたい。
社会科学がおよそ与党的ではなく、概ね批判的にあってこそ存立の意義がある、と私が考えるのは、こんな理解に基づくから。
どうだろう、こんな態度は弱々しいに過ぎるだろうか。ご批判を賜ることができれば幸いです。