実に遅ればせながら、クローズアップ現代、「論文不正は止められるのか-始まった防止への取り組み」(2015.3.10)を見た。
そこでの指摘、「ストーリーに合った実験結果を求める姿勢の行き過ぎ」を興味深く聴いたが、これって、まったく「仮説どおりの授業研究」の問題と同じではないの。授業研究や類する学校教育研究は、はじめから「行き過ぎ」が横行しているのだ。
他方、不思議なことに、「授業研究」の場合は、仮説が棄却されたり、判断不能だったり、ということが起こらない。だって、仮説そのものが検証できない同義反復であるし、また、かりに検証に耐えるものであったとしても、実証するためのツール、観察、測定の方法があまりに素朴で、「私は見た」「そんな気がした」とほとんど信念の世界だから、仮説が検証されたかどうか、誰も気に留めないから。
かくして、この業界では論文不正そのものが成り立たない、ある意味でおめでたく、「そう思う」という信者の集まりの一方、対外的には実証しているかのような体裁を保とうとしている、二重帳簿状態である。
何度でも言う。関係する方々、こんな体たらく状態なのに、科学的な装いの「授業研究」って言っていて恥ずかしくないですか。研究上の不正が生まれないということは、実証性や再現性がないということ。これを分かった上で、どうすることが授業の「研究」なのか、から、議論するしかないのでは。ぜひ反論を聞かせていただきたい。