教員と生徒の思惑の違い、またその表現や表出の違いから、教室では妥当な解釈が必ずしも担保されない、つまり色々な解釈が生じうる。
先日の授業後の感想文に次のようなものがあった。
…人それぞれに価値観があり、教員は教育的文脈に影響される、という話で、私は中学のとき、授業内容をメモしていたのを、話を聞いていなかったと勘違いされて注意された。さらに、「この授業は板書だけでいいの」とよくわからない注意もされた。…
自分勝手な解釈を疑わず、その解釈に沿うよう生徒に強いるという、まったく暴力的なことが起こる。だから重ねて思う。大事なのは「どう実践するか」というよりも、実践という名の行為を支える論理や価値観を問い直す、「どう見ているのか、考えているのか」を振り返り、分析、再構築することだろうと。
「何となく」滑り込んでいる自分の発想と高度の癖、歪みを確かめることのできる能力をいかに持ちうるか。ゆとりのある時間と人間関係(お金もかな)があってこそ、そのためのマネジメント、段取り力じゃないかと私は思っているのだけれど。
だから、懸命、必死、「24時間教師」なんて避けるべきだし、一種の「手抜き」も大切かと思う。でも、教員って不自由なくらいに真面目な人が多いものね。なかなか伝わらないかな、自分の思い込みが、時としていかに生徒を傷つけるかということを。