この頃、ミクロレベルの経営問題、なかでも非言語的なコミュニケーションに関心を持っている。
先日の研究ゼミで拙論を紹介する中で、意図的な非言語コミュニケーションに注目していなかったなあと気付かされたが、その少し後、ある人から興味深い話を聞いて、ちょっとこのテーマでやってみようと思わされたのだ。
ある小学校で教育実習に臨んでいた際、掃除時間の態度が問題だったのだろう、終わりの会で学級担任がある子を叱り始めたという。それを「クラス全体の問題だぞ」と他の児童にも伝わるように話し出した時に、一人の児童が本を広げ読みはじめたのだとか。
おそらくだが、本を広げた子どもは、教員の叱責が不当だと感じた。少なくともクラス全体の問題だと構える教員に不満を抱いたのだろう。その意図的なリアクションとして、つまり抵抗の証としてその子は読書の格好を取ったのではないだろうか。
このように考えてみれば、教室は教員と数少ない自覚的な児童、生徒との激烈な闘いの場でもあると捉えられる。
ここで自身の中学校時代を一つ思い出した。「美術教育の目的は情操の寛容」と怪しげなフレーズを授業のたびに宣い、何と定期試験にこのフレーズが穴埋め問題として出したような、トンデモ教員がいた。それまでも、生徒による「抵抗運動」はあったが、圧巻だったのは「冬のストーブ」だった。つまり、くだんの教員を困らせるために、教室のストーブを最大限まで熱くして授業を妨害しようと、1970年代後半の中学生たちは考えたのだ。
教室内がさすがに熱いさまに「熱くないか?」と話す美術の教員に、ストーブまぢかの生徒が「いいえ、全然」と真っ赤な顔をして答えていた様子が思い出される。本を広げた先の児童と比べてどちらが抵抗的だったかはわからないけれど、いずれも非言語的に、また意図的に教員への不満をアピールしていた点では、世代を超えて同じだろう。
こんなしたたかな子どもが今も育っていること、教育に負けずに学んでいることを、心強く思う。人間の学ぶ力のたくましさを感じる。