文部科学省は27日、全国の国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を示した。理系強化に重点を置いた政府の成長戦略に沿った学部・大学院の再編を促し、国立大の機能強化を図るのが狙いで、6月上旬に文科相名で大学側へ通知する。………………
こんなニュースが流れた。国立大学法人は来年度から第3期中期目標・中期計画に入るが、「実学」に大きく舵を切る方向で方針が各大学に問われることだろう、いやもう問われているのだと思う。
確かに、18歳人口減、私立大学の台頭と、国立大学の役割が再定義されるべきとは言える。けれども、平均寿命がいっそう伸び、生涯学習社会とも言われる中、「儲けられるうちに儲けて、あとは野となれ山となれ」は、あまりに品がないのではないか。
「教育は国家百年の計」とは管子の言葉とのことだが、これを一つ解釈すれば,平均寿命もいまの日本より遙かに短かったはずの時代の百年とは、一人の人生を悠々と越える長さだったはずだ。だとすれば、その計とは、いっときの思潮や流行ではない「わからなさ」を前提にもしていたように思う。
それが、PDCAサイクルを回す、コストパフォーマンス(費用対効果)を高める、ニーズに応える、といった短期的視野にもとづく発想は、とても百年に対応するものとは言えないだろう。学習指導要領だけでも、経験主義と系統主義が入れ替わり、学力調査ではあるときフィンランドがもてはやされ、今や注目されない、さらにはPISAテストそのものへの懐疑も広がっているといった無常を見るに、百年の計を立てるとは、柔軟であることを抜きに語れないように思う。
ときの政治家や官僚はそれでいいかもしれないけれど、最前線の教員や学校も同じようでいいのだろうか。ずっとあとになって、思いだしてもらえる学校生活とはどんな条件を備えているものだろうか。