校内研究ーそのほとんどは幼児、児童、生徒に関するものだがー、について、飲み会話で盛り上がる。
その中で、学級集団を捉えることは事実上できないし、かといってケース研究、事例を扱っても、学校教育の研究にはならないなあと、気づかされた。まさに「どっちもつかず」である。
繰り返そう。学校は幼児、児童、生徒と呼ばれる子どもを集合的に扱うところだ。「個に応じた指導」といった言葉が強調されるのも、それだけ個に応じていないからこそである。何年何組何番と常に帰属が求められ強化される。着用が求められる名札、決められた座席、クラス目標、班活動、◯◯隊形、どこに個人を基本にした場があるというのだろう。だから、そこで行われる授業は集合的なものであり、「より良い」授業も「全体的」に問われることになる。
けれど、授業の観察者は、あの子がこの子がと見たものをケースで言わざるを得ず、それがなぜかクラス全体を代表するものと無前提に見なされる。「あの子の様子がこの授業を象徴していた」ってね。そんなん、わからへんのに。
全体をとらえる方法も論理も乏しく(平均というロジックはかなり乱暴だ)、かといって個を捉えたからといって「だから?」と聞き返される(それに、あまり個人に注目すると、観察者効果を及ぼしてしまう。つまり「本当の姿」は見られなくなる)。
残されるのは、何十万人といった規模での統計的分析で教育の効果を測定するか、個人による記録か、辺りかなあ。