学部生への授業、学生たちにこう尋ねた。
「知らない人が知っているかもしれない人に尋ねた結果、答えてもらったら、尋ねた人の言葉は、ありがとう、だけれど、知っている教員が児童や生徒に尋ねた結果、発するのは、それでいいです、とか、正解、とかだよね。これって、とても変なコミュニケーションって思わない?」
この授業のあとの感想の一つは、次のようだった。
…小学校の頃、特に理科の授業で先生が「本当は答えがわかっているが、生徒に議論させたいがために、わからないふりをして発問する」というのが大嫌いでした。先生の頭は「生徒に議論させたい。答えに辿り着く過程を生徒間で共有したい」ということだけだ。生徒に議論させている自分の授業に酔っているようにしか見えなかったからです。こちらは懸命に考えているのに、教室の後ろの方で、これをニヤニヤと眺め、結局は間違った答えを出している子の考えを強く否定することができないために、結論がうやむやで時間を無駄にした気しかしませんでした。もっと良いプロセスがあると思います。生徒は教員のエゴを消費するものではないと思うのですが…
教員のみなさん、いかがだろう。霞ヶ関から「役に立たない」と言われている人文系の立場からは、「答えがない」と思って授業に臨む気軽さがあるけれど、学校なかでも義務教育段階ではそうはいかない、のだろうか。