宿題、作文、レポートを代行する会社が、夏休みに入って大忙しというニュースに接した。文科省は、望ましいことではないが、やめさせることはできないと語ったらしい(読売新聞)。そりゃそうだろう、保護者や児童生徒のニーズに応えているにだから。公序良俗に反するとまでは言えないだろうし。
この例だけでも、学校教育を入力、過程、出力の各段階で計画、実施、評価するというマネジメント論は、およそ現実的ではない。なぜなら、学校の外で行われているこれらのサービス業の結果が、学校教育の出力結果として評価される(少なくとも、「意欲が高い」「丁寧」などと)点で、事実は詐欺的あるいは勘違いだからだ。
敷衍すれば、学校教育の過程についても同じことが言える。塾や予備校の教育の結果かもしれないのに、学校の授業を通じて「力がついた」と評される。かくして、学校教育が何をしたから生徒がこうなったと説明しようとしても、学校外との関係でいわば「じゃじゃ漏れ」状態では、議論のしようがない。
にもかかわらず、学校教育が生徒の有り様を独占していることを前提にしたマネジメント論が、まことしやかに語られ、教育委員会の講座などを通じて正統化される。
もともと、こんな発想は現実的ではないのに、説明のようにならない(入力ー過程ー出力関係を説明できない、したがって、日々の職務をどのよう目標に向けて制御すればよいか、わからない)のは、自分たちの力量不足だと思い(思わされ)、これを変えるには意識改革だと説教される。まったくもって、理不尽な話である。