学校教育に向けられる人々の眼差しは期待を込めている分、厳しくもある。しかし、それは無制限であるはずがない。
こんな話を聞いた。ある街では議会を通じて議員が教育委員会に対し、「がん予防教育」の推進を求めたというのだ。どうもその街では、がんの罹患率が高いのだそう。だから、教育の力でこれを抑制したいという考えなのだろうが、無茶振りもほどほどに願いたい。
そもそも、がんの罹患率が高いことが本人の意識とそれ基づいた行動にどれほど還元できるか、明らかではないのに、たとえば、放射能に被爆する仕事に就かざるを得なかったり、がん予防になるという食べ物を得られなかったり、あるいは、家族の喫煙から逃れられなかったりするのに、どう本人にできると言うのだろうか。遺伝的要素も排除できないだろうし。
また、がんは年齢を重ねるほどに発症するから、被教育経験との相関をいっそう伺えない。子どもの頃の「がん予防教育」を、その後の何十年にも及ぶ経験が打ち消すことは十分に考えられる。もちろん、がん予防の常識が変わる可能性も考えておかなければならない。
こんな素朴で乱暴な「教育オールマイティ」主義を示されたならば、たとえ住民の代表とはいえ、教育委員会はやんわりと諌めなければならない。そんなことに市民の貴重な税金を使うことはできません、と。
無理難題を持ち込むのは保護者だけではない。行政は、その分野の専門家として「民主主義」と対峙しなければならない場合もある、と心すべきである。