学校教育の世界に限っても、評価は大流行で、教育評価、学校評価、教職員評価、そして教育委員会評価とオンパレードである。誰が、何を、どのように評価するのか、評価の着眼、方法、結果のフィードバックはと、まったく賑やかなことだ。
もう20年ほど前、大学の授業評価が制度化されようとした頃、教員にアンケート調査をしたことを思い出した.当時の私は、自分の授業について学生からの評価をすでに行っていたし、東海大学などで先行していたひな形を参考に。自分でアンケート項目を作り、学生に書いてもらい、集計、分析と、嬉々として臨んでいた頃だ(これは後に、『学生による授業評価と「大学における教員養成」』と題した研究室報告書にまとめた)。
英語分野の教授だったが、自由記述の欄におおよそ次のようなことを書かれていたと思う。「学生に対して真摯に授業をするのみ。それがどのように受け止められたか、どんな授業だったと思われたか、を知ろうとするなど、見当違いも甚だしい。」
こうした意見に対して、「いい加減な授業をしているから、評価されるのを嫌がっているんだろう」と批判することは可能だ。けれども、この教授がもう一歩先、「どのような授業だったかは、教員はおろか、学生ですら問われて知ることはできないのに、たとえばアンケートという形で行うことで、結果が一人歩きする危なさを考えるべきではないか」まで考えていたとすれば、それは一考に値する。
尋ねればわかる、調べれば掴まえられるという前提が成り立つかどうか、から吟味されるべきなのに、聞けば知れる、見ればわかると思い込みがちなこと、このことを疑う必要は、学力調査の大騒ぎや、評価の緻密化といった話を聞くに、より強まっていると思う。
「そんなことして、ちゃんとわかるって思うなんて、大きな勘違いしてんのとちゃう?」-こうした問いを発することのできる人間になるように学生を支援すること、それが大学の人文・社会系分野の役割の一つである。