井上章一『京都ぎらい』(朝日新書、2015)のあとがきを読んで氷解した。どうして「七条」の駅に「しちじょう」って表記されているのか、が。
読むと、京都あるいはその周辺では、ひちじょうが普通なのに、明治以降の東京の政府は、しちじょうが正しいと強要してきたらしい。京都近辺の人間には、しちじょう、と、しじょう(四条)は紛らわしく、七条をしちじょうと言われるのは迷惑にほかならない。さすがに、しちじょうではあかんとなったのだろう、ななじょう、と新手の発音を始めている、という説明だった。
なるほど、確かに、京都周辺で育った私の辞書でも、ひちじょう、が当たり前であって、しちじょう、と言わなあかんかったら辛い。井上さんの本にも出てくるが、七五三は間違いなく、ひちごさん、である(が、このキーボードでは、しちごさん、と打たなければ漢字が出ない)し、上七軒は、かみひちけん、である。質屋ですら、ひちや、と読んでしまいかねない頭としては、しちは発音しにくいのだ。
聞きなれた音は、心地よさにもつながる。外国語の発音も大切と思う自分は矛盾しているけれど、母語(間違っても、母国語ではない)は身体に馴染むものであってこそ、と思う。