学校にいて、とくに中学校で私の感じる「落ち着かなさ」は、教員が生徒に向かって「先生は…」と話しかけることだ。
「先生の授業を受けたよね、みんなは…」「先生の感想を言うと…」「先生は驚きました」といった表現が続く。私の感想だから、個人的な受け止めに過ぎないから許してね、好きじゃないのよ、この言い方。
学生にも尋ねる。大学の教員が自分のことを「先生」って言ったら変でしょう。じゃあ、高校の教員は? さらに中学校、小学校の教員の場合は? と。このどこかで違和感を覚えるとすれば、それはどの辺り、また何故だろうか。
私の今の理解を言っておくね。先生という呼称あるいは敬称は、他者がある人を指して呼ぶもの、なのに、自分で自分のことを先生という言う、このおかしさは、相手の了解を得ることなく、相手に対して自分はあなたより目上の立場なんだよ、と表明している、という点にある。
相手がそう認めているとは限らないのに、自分でそう言って、(失礼ながら)恥ずかしげがないというのは、けっこう恥ずかしいことだと思う。また、相手の他者評価を軽んじている(君たちがどう思うかは、重要ではないんだよ、という)点でも、恥ずかしいことではないかなと思う。
かくも、コミュニケーションは、相手に向かって自分が何かを発する時点で、自分のことを赤裸々に示してしまうという特徴を持っている。つまり、コミュニケーションは自己開示で、ときに自らを危険にさらすものなのだ。
にも関わらず、コミュニケーションを情報のやりとりに矮小化して捉えたり、コミュニケーションできることを無前提に望ましいと考える風潮を憂う。コミュニケーションは危ない行為で、誰かれ構わずに交わすものではないのだ。だから「沈黙は金なり」という諺もあるでしょう。黙っているのは自己防衛でもあるの。お喋りは危機管理能力が低いとも言えるのよ。
生徒に素朴に自身を「先生はね」と語っている方々、そのように言う人なのだという評価を彼らから得ていることを踏まえてなお、自分のことを先生と言い続けますか?