少しばかり学校に行くことが増え、いっそう思うようになっている。個々の学校での活動をPDCAサイクルで回そうなんて、誰が言い出したんやろ、って。そんな無茶、そして言いっぱなしの無責任を放ったらかしたらあかんやろ、って。
学校教育は結構な量の血税を使い、終わりなき公共事業として、毎年、毎日行われている。ただ、それがサイクルとして回るのは、実施する側が手中に収めている部分について「だけ」である。学校の暦を決める、修学旅行の行き先を決める、児童・生徒をクラス分けし、座るべき椅子を決める-こうしたことは、文部科学省、教育委員会や各学校で決め、その推移を見守り、必要があれば変更することも、評価もできる、確かに。
しかし、それ以外のことが学校には多く持ち込まれる。思ってもいなかったことを生徒がする、あるいはされる、学校と直接関係ない人物が学校に入ってきうる、生徒の家庭で問題が起こりうる、と自分たちだけでは制御できないことがたくさんある。これらは文字通り、手中にないのだから、直接にはどうしようもない。
そして、こうした「思っていてもいないこと」や「思っていたとしてもどうしようもないこと」に学校は日々、直面しうる。しかも、「自分たちではどうしようもないので、知りません」とはできない。必ずといってよいほど関わらなければならない。自分たちで制御できない分、疲労感さらには徒労感が増す。無力さを学習することにもなる。労力に対するコストの適切性を考えるための費用対効果の歳出など、夢想である。
さて、学校においてPDCAを廻さなければならない、と今なお宣うている御仁、その主張の妥当性をもう総括してほしい。そして、現実的でないと評価するのならば、その言説の撤回と自己批判をしてほしい。それが「研究者」の良心だろう。