大阪府下の中学校の運動会で、10段の組体操が崩れ、骨折などの怪我を負った事故、昨年度もこの中学校で、同じく骨折を含む事故の起きていたことが報じられた(読売新聞、20151005)。
昨年度から始まったこの競技、事故が起こったにもかかわらず、「教員らは『生徒に達成感を知ってほしい』として今年も実施したという。」(同上)。学校管理職のリスクマネジメントはできていたのだろうか。
これとは別に、組体操については個人的経験から、恨みがある。確か6段だったかと思うが、中学校の頃にやらされた。一番下の段に割り当てられ、毎回、運動場の小石が手と膝に食い込んだ。運動会前など、朝礼のあと、生徒たちが小石を拾わさせられたにもかかわらず、小石は尽きないから、痛いことこの上ない。しかも、地面に膝をつき、背中に人が乗るのを待っているなど、一種、屈辱的である。
授業はいつ? と思わされるくらい時間を費やし、大抵は完成せず、途中で崩れる。その痛みも加わる。出来上がった瞬間に教員から声が飛ぶ。「顔を上げ」と。ほとんどいじめのような状況である。なぜこんな目に合わなければならないのか。理不尽である。
教育する側の傲慢さが頭をもたげる部分だろう。こんなやらされを指して、達成感を味わうなどと妄想を高めることができるのは。
達成感など、自分でやりたいと思うこと、ときに他者が止めたらと言っても聞かないほどに意欲のあること、これなしで味わえるものではない。それがなぜか、困難なことをやり遂げたら達成感を味わえる(はず)と、教員たちの頭の中では立論される。証拠もないのに「そのはずだ」という信念が、丁寧に考えることを邪魔する。頭でっかちである。
生徒たちは、教員によるそんな「何となく」の価値づけ、立論、行動の犠牲になる。自分たちの「美しい教育物語」の生贄にされる。えげつない話である。