馳文部科学相は13日の閣議後の記者会見で、教員時代に自身が高校生に対して体罰を行ったことを認め、「改めて、私に竹刀で殴られた高校生たちに謝罪をしたいと思う」と述べた。その上で「体罰はあってはならない」と強調した。馳氏は記者会見場の机をたたき、「教壇で教員がこうやってたたくだけで、(生徒は)萎縮をして、自ら先生に(思いを)伝えようというその気持ちすらなくなってしまう」とも語った(読売新聞、20151013)
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さあ、どうする文部科学大臣。謝罪は結構なのだが、反省しなければまた繰り返される。その上で、どのように「あってはならない」と主張するのか、この理屈をうかがいたい。
私の見るところ、体罰という名の暴行は、自分が正義を行使していると思うことにもとづく。正義のためには手を上げることもやむなし、という理屈である(もっとも、この人は自分の手が痛くなく、かつ相手がより痛い、竹刀で殴ったという)。この理屈を支えるのは、生徒は未熟な存在で、自分が成熟した存在だという眼差しがある。教員という国家資格、よく分からないけれど「先生」扱いされているという周りの雰囲気から、自分をひとかどの者だと思ってしまうのだ。こんな何となくの前提から、彼らに乱暴に接してもよいという理屈が生まれ、暴行が行われる。
こうした繋がりに揺らぎを与えて、組み替える機会を持つことこそ、教育実践が変わるだろうに、この御仁が、「あってはならない」ともし強調するだけならば、実効は怪しい。
これまでの大臣が良かったなどと言うつもりはないけれど、この人は大丈夫かしら。竹刀を振り回して、体罰はあってはならんと言うたやろ、と、今度は教員たちに怒鳴るようなことがあれば、まさにホラーものである。