宅配便のドライバーが配達中の車内で喫煙、荷物を下ろしている間もタバコの火がついたままの場面に出くわした。驚いて、御社の方針としていかがかとご意見コーナーに送ったら、わずか2時間あまりで所管支店長から返事が届いた。会社として車内の喫煙は禁止、灰皿も取り外しているが、これに反して当のドライバーは灰皿を持ち込み吸っていたこと。これを機に禁煙すると言っていること、管理者としても大いに反省している、という内容だった。
こんなケースに接すると思う。学校ではなぜ管理職といえども、個々の教職員とくに教員の行動を操作することが難しいのか、ということを。
おそらくそれは、仕事の結果が見えにくい、行動の際の基準を立てにくい、それぞれの一家言を必ずしも否定できない、という流れに由来するのだろう。どのように仕事をすると効果的なのか、少なくともどのような働き方、動き方では目的や目標に照らして拙いのか、の原則を立てることが、ほぼできないのだ。
このため、他者を操作しようとすれば、有無を言わせない法律や文面になくても「常識」を盾にするか、本人の納得、得心を得るような論理的・情緒的な仕掛けを用意するか(ただし、どれほど効果的かは定かでない。相手に依る)、しか残されない。行為した結果から「これではマズイだろう」とエビデンスを示しながら、つまり共通に理解しながら行動の基準、マニュアルを作っていく余地がきわめて乏しいのである。
人格をとりあえず脇に置いては職務に就きにくいのが、学校教員の特性であることから、その妥当さの多くは個々に委ねられる。だからこそ、自分を常に疑うこと、こわごわと実践することが不可欠となる。自分が正しい、ましてや自分が一角の人間だ、などと思う状態は教職として不健康ですらある。たとえば、人前で自らを「先生」と呼ぶなど、幼いにもほどがあると言うべきだろう。