学生たちによる卒論・修論の検討会に参加した。例年のことだが、学ぶところ大である。
ある発表とこれに対する質疑のやり取りを聴きながら、次のようなことを思った。「社会は暗記科目だから」云々という言い方がある。これは往々にして、否定的な意味合いで遣われるけれど、慎重に考えれば、「暗記だからよろしくない」というのは早計だと気づける。
たとえば、好きな作家の作品を数多く読んでいて、尋ねられれば、作品リストを挙げることができる。そらんじているからだ。好きな歌手や曲名でもいい。私の中学校時代、ビートルズの大ファンだったクラスメイトは、歌詞をすっかり覚えていた。暗記できてバンザイ、でもある。
これに対して「嫌だけれど覚えなければならない」のは、丸暗記とでも言うべきものであって、苦しいことだ。そこに楽しみや自分なりの意味を見出せないのだから。こうして暗記という言葉に対して、複数の価値づけができる。
「~だから、~だ」と言うときに、自分の気づかないうちに、「何となく」滑り込んでいるものがないだろうか。この点で「わかりやすい」は危ないことでもある。既存のモード、モデル、リファレンス、大げさにはパラダイムに収まってしまい、新しいことに気づけないのだから。
「考える」とは「吟味する」とは、こういう頭での作業も含むなあ、丁寧に考えるトレーニングを欠かしてはならないなあと、改めて思ったことだった。