小学校で3年生の算数の授業を見た。
14✖️3を縦書きの筆算にしていたが、これを3✖️4、3✖️10、合わせて42として教えているのだ。
5枚の紙を6人に配るときの式を、5✖️6にするか6✖️5にするかについて、喧々諤々の議論があり、なぜか5✖️6しか正解と見なさない教員と不幸な出会いをする生徒もいるというのに、なぜ意味を持たない、つまり交換法則を踏まえた3✖️4で計算の仕方を教えるのか、と質問をした。
すると、授業者は指導書にそう書いてあるからと答え(自分で考えたのだろうか)、隣の数学教員は、ここは技法としてやっていると見ればいいのではないか、と返した。だから私は尋ねているのだ、日常の場面により即して算数を教えることが重要と、散々に掛け算の順番にこだわるのに、3の段だけで計算できるからと文脈を想定しない授業でいいのか、両者は矛盾していないか、と。
けれど、この趣旨は彼らに届かなかったようだ。「まとめ」と称するお喋りでは、アクティブラーニングが言われる今日、こうした子どもの実感に根ざした授業は大切だろう云々、と話したのだから。あのね、さっきの授業は全然これに根ざしてないし。機械的にやっているだけだから。どこを見てそんなことを言えるん。
私の覗いたところが、酷いケースだったのかもしれない。けれど、こんな不整合なやり取りをしていて不思議と思わない「学力」の教員が数人はいるというだけでも、問題状況としては十分ではないか。
研究授業、事後研究会、操作的活動、と言葉はたいそうだけれど、話していることはほとんど思いつきと仲間内での気遣いである。何も気づきも発見も考察もない。こうした場を持つことそのものに意味があるのだ。こんなことに血税が投じられていることを納税者が知れば何というだろか。