原語はおろか、邦訳でも読めないと思うので、『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦訳)を読んでいる。訳者が述べているように、その分析の鋭さはとても魅力的だ。「ツァラトゥストラはかく語りき」の中に、次のような一文があるという。
…どれほど良いことに見えても、「〜のために」行うことは、卑しく貪欲なことだ。
誰々のためであろうとも、何々のためであろうとも、それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。
つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。
けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、「〜のために」という言葉も考えも出てくることはない。…
もちろん、この見方への異論はあるだろう。その上でなお、何となく遣っている言葉を疑ってみる手掛かりとして、これを読むことは大切かと思う。たとえば、教員として慢心してはいないか、うまく「実践」できなかったとき、誰かや何かのせいにしてはいないかと。