義務教育段階の校内研究を見ていて、つくづく不思議なのは、似たようなテーマはちょっと見渡せば、どこかで扱っているだろうに、それらがどんな研究だったのか、何がわかってどの点が課題なのか、を扱わないこと。つまり、まるで自分たちがこもテーマで初めて臨むかのような格好で、研究を始めることである。
多少なりとも法則的なことを求めようとするのならば、同様の先行研究を渉猟し、分析することなしには何も始まらない。もうわかっていることならば、新たに扱う必要はないし、結果が一様でなければ、大いに扱うべきことなのだから。つまり、どこまでわかっているかを知ることは、何がわからないかを知る上での必須の作業である。
なのに、学校の研究の文書には、まず先行研究が挙げられることはない。文部科学省や国立教育政策研究所(文部科学省の一部だけれど)の関係文書が示されても、それはお墨付きを得るためであり、分析の対象になっている訳ではない。聖書のごとく扱う人もいるもんね。
自分たちが、一番乗りをするテーマでないのなら、先行研究は不可欠である。なのに、これなしに、あれこれ文章を綴るのは紙の無駄遣いに他ならない。
あるいは、先行研究を踏まえないのなら、こう考えるべきだろう。
学校の、ましてや授業についての研究は、蓄積の難しい分野と心得ることである。むしろ大切なのはいかに事実を捉え、解釈しているのかという自己認識を見つめることだ。人格と切り離し難い教育という業務は、教員の認識と感情に大きく拠っている。ここに着眼しない授業論は無力である。
さて、皆さんはいずれの方向を取るだろうか。