良くも悪くも、教室での教育ー学習という出来事を正しく捉えることは、不可能に近い。
なぜなら、①「子どもが変わる」ことを期待して行われるけれど、その変化の主眼は、関心、意欲、態度、あるいは思考力、判断力、表現力といった、内的で外からはわからないもの、あるいは、外からわかるとしても、そうした素振りをするということを排除できないものだから、②彼らを観ようとする教員によって、彼らの振る舞いが左右されるので、「本当の姿」に迫ることができないから、③つかまえようとしても、教員の視力や聴力の限界は明らかで、かつ教員の価値観や論理によって歪みが避けられないから、である。
つまり、子どものみとり、彼らの観察、評価というものは、まあだいたい、とか、こんな感じといった印象の域を出ない。厳密な把握など想定外である。
だから、問うべきはむしろ、どのように、なぜ教員は子どもや教室の状況をそのように捉えたかということである。自分の味方の偏りや癖に気づくことができれば、違った行為が視野に入ってくる。
何となくそう思ってしまうこと、なんとなくそうやっていること、それを捕まえて思い返す材料にすること、その能力こそ、「成長し続けようとする教員」と言うべきだろう。