ふだんはこちらが授業者や研修での指導者だけれど、学校から大学に来ていただいたりして、学生と一緒に聴く側の立場になることも、たまにある。
その中で、話される中身は興味深いのに、一度に話す時間が長くて、聴く側の集中が切れてしまい、さらには教室の雰囲気がだれてしまう場合が、たまにある。
敷衍すれば、授業論とはいうけれど、人間が生き物としてどれだけの情報を一遍に得ることができるのか、そのためにはどんなメディアが適切か、いかに見たり、聞いたり、あるいは感じたりすることが、目標に照らして適切なのか、という認識論的な接近が乏しいように思う。
臨床関係などで傾聴という言葉があるけれど、10分も傾聴するとくたびれてしまう、と関係者から聞いたことがある。だから「話をよく聞きなさい」というならば、聞く集中度、濃さと聞くことのできる時間とが逆に相関する、おおむね反比例することを踏まえて、そんな声かけをしなければいけないだろう。にもかかわらず、集中しなさい、頑張って、といった根性論が跋扈して、聞かされる側の認識具合が重視されていないよう思う、と言うのは意地悪な見方だろうか。
授業を分析するとは、たとえば授業者の話す速さ、音の高さ、リズム、アクセント、あるいは沈黙、さらには表情、手振り身振り、歩き方といった非言語の世界を含めて、どんなふうに行為しているのか、それが教育実践を捉えるということだろう。ところが、そうした豊かな世界への注目が看過されているのではと、この頃強く感じる。
毎日のように、わかる授業とか楽しい授業と喧伝されるのに、そのための児童生徒の認識、さらには授業者の認識がどのように働いているのか、またそれらはどのような環境でそうなるのか、ならないのか、という分野の研究がなされていない。もしそうだとするのならば、授業研究の一部として取り組まれるべきこと、そんな議論が学校で大いに起こってほしいな。