生徒間の力学について話していた時に、学生から興味深い話を聞いた。
転校生に話しかける人は、「お前だけ先んじようというのか」と見られて、いじめられることになる。だから、転校生に話しかけようとする人はなかなかいない。ところが、クラスの中でリーダー的な生徒が話しかけると、「お墨付き」を得たかのように、途端にみんなが、転校生に話しかけるようになったと言う。学級内の力関係を踏まえた生徒の言動がうかがわれる。話してくれた学生が中学二、三年生の時のことだそうで、つい五、六年前くらいの出来事である。
授業が行われる単位である学級には、こんな人間関係が渦巻いている場合もある。その上に、授業中の児童・生徒の言動が見られるのだ。なのに、教育の成功という願望の強い大人は、こうした文脈とは異なる眼差しを注ぎがちである。「うなずいたのはわかったから」「発言するのは積極性の表れ」「学ぶ共同体の素晴らしさ」と。
そんな場合もあるかもしれないけれど、子どもたちの世界に大人が入っていけないことは自明だから、おのずと限界は明らかである。繰り返し言おう。授業がどんな風になるのか、それは巡り合った学級の様子に規定され、授業者のカラーがこれに加えられる、およそ設計図などと言えるものではなく、即興の、創発的、発見的(heuristic)な出来事である。
その大らかさ、ある意味でいい加減さを踏まえて、だいたいの感じ、をいかに捉え、また複数の(決して多くの、ではなく)眼差しを通じて相対化するのか。この方向での「授業研究」さらには教室研究にぜひ舵を切ってほしいと思う。