「風通しの良い学校」とは、多くの情報が流れている学校のことである、と述べる一文を読んだ。確かに、教職員の間で情報があまり共有されていないことが望ましい、とは言えない。けれど、こうした物言いは、大切な一面を見逃してはいないだろうか。
情報がたくさん流れるということは、それだけ伝達の過程や受け手の違いなどにより情報が変形する、知るべきでないところに漏れる、適度な更新が必要になるといった、情報の管理に労力を要することも意味する。
例えば、ある生徒の様子について、授業などで直接に知っている教員の間で理解していることと、直接には知らない教員がわかることとの間には差があり得る。あるいは、情報が多くなるほどに、口頭だけでなく紙や電子機器等を介するが、それらが教職員以外、例えば児童生徒や保護者、あるいは学校に出入りする人たちの目に触れる危険性が増大する。
「問題のある生徒」に関する情報が、知るべきでない人に流れた場合、その事後対応に要する労力は相当のものだろう。そのため学校では「取り扱い注意」等の表示をしたりして情報管理に努めているが、これらを乱発するわけにはいかない。また、多すぎる情報が、勘違いや混乱を起こすことも懸念される。これらを天秤にかけながら、情報の発信と受信、共有と管理に臨むこと、と述べるべきだろう。
つまるところ、一面だけで言い切らないこと、そうした慎重さとそれを支える想像力がなお重要、と思わされる。