学校経営を説明する論理として、あるいはありうる姿としてPDCAサイクルを引くことの難しさ、不適切さを改めて思う。
なぜって、学校を法的、行政的、教育ー学習的、そして人間的に営む上で、①まず学校の主体性がかなり限られるだけでなく、②そもそも計画段階から活動が始まることを想定できない場合が多い、ーこれらを学校を説明する際に外すことができないからだ。
学校の主たる対象である児童・生徒がおとなしくしてくれていれば、①はある程度は解消できるけれど、それは実際的でないし、教育的に望ましいとも考えられない。子どもの発達や成長は、彼らの主体性を前提としているのだから、それらが全面的に学校の手中にあると考えること自体が間違っている。
また②については、児童・生徒が何かをすることによって学校が対応を求められるという場合が少なくなく、学校による計画から展開して事実が生じることを前提にできない。むしろ予想外の出来事に学校が翻弄されることがあり、教員の多忙問題もここに由来する 。つもりをしていなかった事態に対応しなければならないと言う焦燥感が、多忙とはまた異なる多忙感をも生み出してもいるのだ。
自身で業務を整理し秩序的にこなしていけるものとして学校の仕事を捉えることの無理さ、を認めること、その上でありうる働き方を構想すること、そんな基準点に立ち返ることが大切だなあと、強く思わされている。