「チーム学校」と中教審が唱導しているので、そんなもんかなと関係者の発言からもそれらしいことが聞こえる。けれど、あまり考えられたものとは思われず、ご多分に漏れずというべきか、イメージ先行に留まっているのではないだろうか。
学部生との授業で次のような話が出た。学生の妹さんの話、小学校5年生の時の学級担任が厳しい人で児童を押さえつけていたが、6年生になり緩い目の担任に替わったら学級崩壊が起きてしまった。また開かれた保護者会では、現担任の姿勢を支持する親と、厳しい姿勢の方がいいとする親との間で、ケンカまで起きてしまったのだとか。大変だなあ。
これは、研究者仲間の一人が言う「学びの連続性」が担保されていないことでもあるだろうが、時間軸という「タテ」の連続性が考慮されていないことの現れでもある。つまり、現時点での空間的な「ヨコ」の連続性を確保すべきという「チーム学校」論は、つまるとこ全く平凡な、まあ思いつきの域を出ないくらいのアイディアだということだ。
児童・生徒は学年を順次進んで行き、時間的にまたがって成長・発達すると考えられている。ならば、より確かなものとされるべきは、前の学年から今の学年へ、今の学年から次の学年へという時間軸に即しても「チーム」であることだろう。
すでにこの着眼はある。小中連携・一貫などの議論は、「中一ギャップ」などを解消すべく、時間軸において小学校と中学校が「チーム」たることを求めるものだろう。
ただし、この「チーム」はなかなか上手く行かない。子どもは日々変化するし、学級担任ひとつ挙げても同じようには振る舞えない。せいぜいのところ 、心がける意識づける、あるいはコミュニケーションを図るくらいまでだろう。
まあ無理なことなのに、〜すべきと最前線の学校をいたずらに鼓舞・説教しないこと、できそうなところは何かを示して、そこになるべく多くの資源を投じられるようにサポートしていくこと、そんな発想と行動そのものが、たとえば教育委員会も「チーム」として関わることだろう。