授業研究という場でよく遣われる、手立て、という言葉。指導の方法や工夫という意味合いで用いられる。でも、教育の一番の変数に迫ろうとしているとは思われない。
そもそも、教育の方法にはどんな領域があるかと考えてみると、教材、教室、教員や児童・生徒を挙げることができる。たとえば、電子教科書は授業をどう変えるか、教室の机の配置を変えたらどうなるか、といった実験が可能だろう。
そして、教員や児童・生徒について。これらは、授業を決定づける第一の変数である。子どもの意欲が高ければ、教員がいなくても学習は進むし、反対も然りだ。さっぱりやる気のない子ども前に、教員は何ができるというのだろう。しかも、この変数を直接に操作することはできない。「子どもには子どもなりの事情や都合がある」のだから。
では、残される教員についてはどうだろうか。ここには実に多くの要素がある。しかも手つかずのままで。さあ分析してみよう。まず表情、どんな顔を見せれば児童の反応を方向づけられるだろうか。顔つきには視線も含まれる。笑顔や柔和な視線を向けることで何が起こるだろうか。あるいは、声の調子、呼びかけ方、方言を遣うかどうか、高さ低さ、話す速さ、抑揚、沈黙のいかん。内容的に見れば、開放的な質問か限定的な質問か、冗談(これもダジャレ、ジョーク、ウイットなどど分けられる)の頻度、ウソを意図的に入れてみる、逆説的な物言い、などと分解できる。
はたまた、手足の動きについても盛りだくさんだ。手振り、指を折る、拍手する、歩き方、動線の長さと順序、腰をかがめる、はたまたジャンプする。
板書との付き合い方もあるね。何も書かない。端から真ん中へと書いていく、フリップだけにする。ほら、いろんな手立てがありうるでしょう。
こんな風に授業者である教員を分節化すること、それなしでは教員が変わることは期待できず、心がけ、精神論に留まる。そんな「授業研究」にどんな意味があるというのだろうか。
もっともっと分析能力を教員が身につけること、大学はそのためにあると思うのだけれど。