高校教員と話をする。いわゆる困難校に近い学校に、長らく勤務をしている方だ。
「今年の生徒はこれまでと違うなあ」と職員間で話になったらしい。きくと「学校をさぼったらあかんやんか」と教員に怒られて、素直に謝る生徒、その生徒を指して「それは、あかんやんなあ」と同意する生徒がたくさんいるというのだ。これまでは、それがいけないことだとは、少なくとも態度上は示されては来なかったらしい。
すると、教員の対応も変わってくる。もちろん、教員と生徒の人間関係にも影響があることだろう。「結局、入学してくる生徒によって違ってくる、ってことです」と先の教員は話していたけれど、その通りだろう。どんな生徒が入学してくるかについて、高校側だけで決めることができないという、ある意味で当たり前のことがここでも確かめられるという話だ。相手がわからないのに、「こんな風に進めますって」言うのは無茶、無理って思うでしょう。なんで、自分の首を絞めるようなことをわざわざ言わなあかんの。
なのに、教育委員会あるいは教育センターの一部あるいは(少なくとも、そんなポーズをとる)その賛同者たちは、「年度ごとに各学校で学校の現状を正確に捉えて、これにふさわしい教育計画を立てる」とか「そのためには、PDCAサイクルを適切に回す」と、今なお懸命に主張される。けれど、これらは学校の実際にほとんど合っていない。意地悪に言えば、現実味がない分、「(そうはなっていないけれど)だからこそ、そうしなければならない」といっそう声高に叫ばれるのだろう。
この先生からは大切な指摘もあったよ。それは、「PDCAサイクル論は、右肩あがりの成長を前提にしている」ということ。正鵠を射ていると思う。日本の経済も人口もそうだけれど、いつまでもそんなベクトルが続くはずがない。となれば、こんなサイクル論を喧伝する輩は、過去の日本に対する強いノスタルジーを持った、懐古主義者ということか。いやはや。もっと近未来を見据えた、地に足の着いた議論をしようよ。